「東京都立大学大学情報研究会」は東京都立大学・首都大学東京で、「大学」をテーマに研究・出版活動を行っている学生サークルです。


by daijouken

『暇と退屈』のサークル賛歌

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「サークルの主な目的は、退屈の気晴らし、暇つぶしをすることにこそある。目標か何かを成し遂げることやそれによって達成感を得ることは派生的に生じたに過ぎない。」
上述のような考えを国分功一郎の著作『暇と退屈の倫理学』を読んでから持つようになった。
私は、暇なことや退屈であることを忙しいことや目標を持っていることに比べて、どこか劣位においていたように思う。『暇と退屈の倫理学』においては、退屈であることはきわめて人間的なことである。それが私にとって意外で、印象的であった。そして、それと同時に「『暇と退屈の倫理学』の結論は、「サークルのあり方と似ているのではないか」という感想を持つようになった。私は、音楽系のサークルに所属しているのだが、そこで感じたある疑問に一つの解答を得られたことがそのきっかけである。その疑問については後に示す。本文では、私自身のサークルの記憶に触れながら、『暇と退屈の倫理学』の結論とサークル(注1)のあり方の親和性を示していきたい。
本文では、サークルを『暇と退屈の倫理学』の視点から見直すことを目指す。国分は通読すること、論述を追っていくことで『暇と退屈の倫理学』との距離をはかることが重要であるということを述べている。本文があえて結論のみに焦点を当てるのは、これが論評ではなく、『暇と退屈の倫理学』の私なりの展開だからである。それを通じて、サークルの重要性を訴えたい。

『暇と退屈の倫理学』結論
 まず、私がサークルと親和性を感じた『暇と退屈の倫理学』の結論について示しておく。国分は、どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくか、について次のような結論を示した。
 1つ目の結論は、なにかしなければ、と思い悩む必要はない、というものだ。スピノザは分かる事とはどういうことなのか理解すること、そうした自分独自の理解の仕方、過程が理解の経験を重ねることによって発見されていくことを反省的認識と呼んだ。国分はこの本を通読することでこの本との関わり方を発見していく過程が重要という。以下に示される結論は、それに従えば、退屈がどうにかなるというものではなく、「その方向性へと向かう道を、読者がそれぞれの仕方で切り開いていくことになる、そういう類の結論である」(上掲書,p.342)。
2つ目の結論は、贅沢を取り戻すことである。贅沢とは浪費することであり、消費とは区別される。浪費とは物を受け取ることである。例えば、それは衣食住を楽しむこと、芸術・芸能・娯楽を楽しむことである。食においては、細かな味を理解することに訓練が必要なように、日常的な活動を楽しむためにも訓練が必要なのである。訓練がなされれば、より深く享受することのできる可能性がある。なお、人間であるということは、ハイデガーのいう退屈の第二形式を生きることである。退屈の第二形式とは、退屈と気晴らしが独特な仕方で絡み合ったものを生きることである。気晴らし、すなわち物を受けとることは同時に退屈を感じることがあるのだ。贅沢を取り戻すとは、退屈の第2形式における気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり人間であることを楽しむことである。
人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない。そのことから人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活からはずれたときであると考えられるはずだ。動物がなんらかの対象にとりさらわれている(≒とりこにさせられる)ことがしばしばある。人間がその状態にあることを動物になることと称することができるだろう。第3の結論は動物になることと関わる。人は対象にとりさらわれたとき、思考する。習慣がなんらかの形で変化させられたり、崩壊させられた場合、それに対し思考する。人間は思考を避ける生き物であるが、その時、思考は強制され、とりさらわれている。そして習慣を変化させてそれに対応するのである。その時、人間は動物になることを経験している。
退屈をずっと続けることは困難で、日常的に人間は動物になることを行っている。それに人は順応し、見慣れ、また退屈するのである。ならば、習慣化できないより強いとりさらわれの対象を受けとるようになるしかないのではないか。それはいかに可能か。退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなかでは、そうしたものを受け取る余裕をもつ。これは次の事を意味する。楽しむことは思考することにつながるということである。楽しむこと、思考することは、どちらも受け取る事であるからだ。楽しむためには訓練が必要である。その訓練は受け取る能力を拡張する。楽しむことを知る。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。
「自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには分からない、そして、思考しないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。しかし、世界には思考を強いるものや出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の体験をすることで人はそれを受け取る事が出来るようになる。人間であることを楽しむことで、動物になる事を待ち構えることができるようになる」(上掲書,p.354)。
以上が、『暇と退屈の倫理学』の結論である。こうした視点からサークルについて、考察していきたい。

サークルと“ふるまい”
国分は、ハイデガーがパーティで付和雷同として人に合わせ会話を楽しむ様子を例に、気晴らしをしていると同時に退屈する、退屈の第二形式を論じた、としている。
この様子はサークルでの新入生の様子と似てはいないだろうか。サークルで先輩の会話に合わせたり、活動においても初心者が先輩の動きをマネすることはよくみられるだろう。初心者でなくてもサークルの活動の様子、雰囲気をうかがい、合わせていこうとすることが多い。これは付和雷同といえるのではないだろうか。私は、サークルに入った時、初心者同然であった。先輩たちが教えてくれ、フォローしてくれるなか、活動していた。また、先輩のマネをした。動きを見て、体の使い方をマネしたことを覚えている。良いと言われる音を出せるよう目指した。それがうまくいったと思った時は楽しいと思った。こうした付和雷同の様子が重要である。真似をすることから、学んでいるといえる。そして、サークル活動をしていく中では、真似することで学ぶことは続くだろう。そしてそれは、楽しみながら学んでいるのである。
 サークルに参加するとき、その活動をしたい人、興味がある人、友達をつくりたい人、学びたい人など、そのサークルに入ってなにか楽しみを見つけたい、大学生活を楽しい、充実したものにしたいと思って入る人が多いのではないだろうか。継続するのも同じで、楽しみがなければサークルから離れていってしまうといえる。サークルにはその活動を既に楽しんでいる人たちがいる。そうした人たちを通して、その楽しみ方を訓練していく仕組みがある。サークルは、物を享受すること、楽しむことの訓練の場として適した場といえるのではないか。サークルでは、退屈の第二形式を楽しむ訓練-真似しながら学ぶことはその具体的な一例である-が行われるのである。そして、時にはとりさらわれるものを発見しうる。

サークルと、とりさらわれの可能性
 習慣の変容への対応、日常的なとりさらわれ、人間は日常的に動物になっていると国分は指摘する。日常的とりさらわれは、例えば、新しい曲を演奏できるようになる過程に見ることができる。曲を最初に見たときは演奏できず、曲という対象にとりさらわれることがあるが、曲の練習を重ねることで演奏できるようになり、曲を享受できる。この過程において、曲をより簡単に演奏できるような工夫や方法を学ぶ。すると、また暇になることもあるだろう。この過程は習慣を再編成する人間の能力の発揮の過程とみることができる。
では、サークルで強いとりさらわれは起こるのだろうか? 強いとりさらわれは、物を享受した生活のなかで受け取ることができるのだと示された。楽しむことを訓練することは、受け取る能力を拡張する。サークルは楽しむことの訓練の場になりうることは既に示した。サークルは、強いとりさらわれが起こりやすい場であると言えるのではないか。国分は以下のように述べる。「当たり前のことだが、どんなにすばらしいものであっても、誰もがそれにとりさらわれるわけではない。ならば自分はいったい何にとりさらわれるのか? 人は楽しみながらそれを学んでいく」(上掲書,p.353)。 

サークルを楽しめないとき
ただ、楽しむことは簡単ではない。楽しむことの訓練は、常になし得られるわけではないのだ。私自身の経験から語ろう。冒頭に挙げた私の所属する音楽サークルに持っていた疑問を題材にして示す。

サークルで浮かんだ疑問、それは「なんでみんなこんなに努力しているのだろう?」という疑問である。
そのサークルの仲間には様々な演奏を聴き、知識を得て、他団体に活動の幅を広げる人が多くいる。私は、それをきっと向上心があるからという程度に捉えた。それはきっと半分当たっていて、半分間違っていたといえる。彼らは、きっと楽しんでいたのだ、物を享受していたのだ。好きだからより知りたかったのだ。向上心と物を享受する事の違いは何か。それは栄養を取るためだけの食事と楽しむ食事が異なるように、目的が違うのである。前者では、生命維持活動が目的であるが、後者では食事自体が目的である。努力するサークル仲間は、きっと多くの部分で知ること自体が楽しく、それが目的なのである。私はどこかで楽しむことと努力することが対立することのように捉えていたのかもしれない。でも、楽しむことが知る事を求めることは十分に起こりうることである。映画『桐島、部活やめるってよ』に出てくる映画部の高校生は、プロを目指しているわけではない。でも、なにをするよりも映画をみることを楽しみ、映画を撮るために奔走し、それを楽しんでいる。その点でサークル仲間にとってみれば、「楽しむことと努力すること」でいう、努力という言葉は不相応だろう。私からみたら努力に見えただけなのであって。
また、サークルでは大学から始めた人は高校からやっている人のようになることはできないと思っていたことがあった。でも高校からやっている人になるというような、そんなことは、本当はどうでもいいはずなのだ。私は最高の演奏をする団体に入っているわけではない。楽しめればいいはずなのだから。

以上のように、サークルが常に楽しめる場であるわけではない。ここで言う「楽しむこと」とは楽しむことが知ることに向かっていくように示されており、一般的に言われる「楽しむこと」よりも限定されたものである。私は、この意味でサークルを楽しめたことがある。でも、上述のように考える時もあった。その時、きっと私はサークルを楽しめていないのである。そしてこれは、普通のことだろう。しかし、それでも実はサークルという気晴らしを楽しむという回路は開かれ続けているのである。
私の楽しめない話は一方で、サークルにおいて仲間たちが物の享受をし、楽しみの訓練する場の話でもあった。私は、その場にいなければ、仲間たちと自分を対比し、疑問に思うことさえなかっただろう。サークルならば、きっと常に誰かがその活動を楽しんでいる。もし活動を楽しめないことがあっても、誰かがまた楽しむことに呼び戻してくれるのではないだろうか。音楽サークルでは、誰かが演奏していたらそこに加わること、ともに演奏を聴き、視点を共有することがしばしばなされる。そうすることで楽しさに呼び寄せられることがある。サークルは相互作用によって、楽しむ訓練を行う回路に人を向かわせることを可能にするのではないのだろうか。また、他者が物を享受し、とりさらわれることを見ること、そこに加わることは自分と他者の興味の違いを実感させうる。それは自分が強くとりさらわれるものを見つけることにもつながる。

『暇と退屈』とサークル
以上、サークルを『暇と退屈の倫理学』の視点から論じてきた。それを踏まえて、サークルのあり方についての結論を出そう。
サークルは、物を享受すること、楽しむことの訓練の場としての役割を果たしている。サークルで物を享受すること、楽しむことの訓練が行われるとしたら、暇をつぶす気晴らしがそこでは行われていることになる。退屈と楽しさが入り混じったハイデガーの退屈の第二形式が人間的あり方ならば、サークル活動はとても人間らしい活動であるといえる。そしてサークルは、その活動を楽しんでいる、享受している構成員の活動の享受がサークル活動の源になっているといえる。楽しみを共有する者たちが集まる中で、相互作用が生まれる。その中で強いとりさらわれが起こる可能性は大きいといえるだろう。

サークルと大学
以上、結論を示した。最後に、大学について、サークルと関連付けて触れておきたい。サークルではなく、大学自体が楽しむことを訓練する場としてあると考えられるかもしれない。大学で好きなことを学びたいという学生はいるだろう。しかし、現状の大学は成果を強く求められている。教育においても、学生は就職をはじめとする成果を求められ、指導がなされる。「就職課なんて昔はなかった」としばしば耳にする。
サークルがそうした影響を全く受けていないとは言わない。しかし、サークルは楽しむことを訓練する場としての側面を強く有し続けている。そうした中で、サークルは「効率化」を目指す大学から制限を受けるかもしれない。施設使用時間短縮、団体登録の期間制限が例として挙げられる。それでも、私達はサークルでの活動の享受を求めることができるはずだ。私達は大学当局により一層の支援を求めたり、邪魔されることを拒否したりしていいはずだ。「サークルで、一生の宝物が見つかる」というような使い古された言葉は、的を射ている。思い出や友人だけではない一生の宝物、一生つきまとう暇との関わり方を身につける場に私達はいる。


(注1)本文では大学におけるサークルを論じているが、サークルは、当然ながら大学のほか教育機関の中にのみにあるわけではない。筆者の私見であるが、大学におけるサークルは、身近さを持つ一方、学年制による所属期間の制限を受け、上下関係を比較的強く有すると考えられる。

参考・引用資料
文献
・国分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社 2011年
映画
・吉田大八監督『桐島、部活やめるってよ』2012年
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by daijouken | 2013-04-13 18:24 | 『暇と退屈』のサークル賛歌